展転白書

作曲面、日常とウェブ上でのやりとりについての反省や見直しを行う個人的そして自戒的な記録。

音楽の深淵はどこにあるんや

SpotifyでもYouTubeでも、横田進から聞き始め、自動再生か自分で次の曲を探すかを繰り返していると、必ず新しい人と出会う。その度に絶対に為になる技を心得ることが出来る。しかし聴衆のひとりである私の観点からは、彼らの作り出した世界の全てが完成されたものに見えるため、私と彼らとでは表現力と経験値に大きな隔たりがあるように見える。当然理想像が異なるうえ、粒子レベルから全く同じモノなど出来るはずがないため、このような考え方自体はピントがずれている。しかしタバコを吸い少しでも油断すると、そのようなことを考えがちになる。そしてその思考に延々と浸かっていると、まるで深淵を除いているような感覚に陥る。一度そこに陥るとなかなか出られない。居心地が良いためだ。完成された音と肌の触れ合いのみ存在する空間と時間が、たとえ無意識でも現代人の粗を探しがちな私の愚劣な脳をほぐし、同時に放置してくれる。

 

こうして冷静に振り返ってみると、この感覚は錯覚であることがわかる。なぜなら彼らの作品に一つの完成形を見ようが感じようが、そう受け取った根拠と作者の意図との間に齟齬が少しでも見られた場合、それは私の感想にすぎないということになるためである。

聴衆の解釈の真偽を確かめる術は限りなく少なく、届かない。

「そもそも音の楽しみ方は様々である」。これを一般論として定義している訳ではないにも関わらず、多くの聞き手は一々作り手の疑問や意思などには答えない。奴隷根性を僅か7歳余りから刷り込まれる日本に際立った話ではないが、音楽や映画、漫画、ダンスなどの表現における作者の解釈を、目立っているメディアはそこまで掘り下げない。考える機会を与える仲介業者が非常に少ないので、「考える人」は誰も答えない。「考える」という受け皿を持たない人に、彼らは水を注ぎはしない。埋没している才能に触れようと検索しても、有意義な話はタンスのずうっと奥に眠っていることが殆どである。

結局、誰もが勝手に定義してしまえば良い、ということなのだろうか。そこまで自由なのは違和感を覚える。だが現時点ではこの歯ごたえの悪さをうまく文章にまとめられない。