展転白書

作曲面、日常とウェブ上でのやりとりについての反省や見直しを行う個人的そして自戒的な記録。

2018年9月9日時点での記録

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下書き保存ができないとは。地獄の書き直し。

 

先週、勤務中空いた時間を使って自分自身の問題点として意識すべき点を紙に書いていた。その際列挙したのは私生活における問題のみであったが、折角なので曲作りにおける姿勢についても(自己分析を兼ねて)まとめてみる。当ブログで記録らしい記録を行っていないことも良くないというわけで、2018年9月現在における私の脳内で整理されている”自分自身”をここに記載しておく。一か月後の私がこれを見てどう思うか少々楽しみである。

 

 

①自身の楽曲について

特徴
  • 調性を曖昧にし、無個性さ・掴み処の無さを演出する。
  • 主題をただ繰り返さない展開を意識する。
  • 印象派

上記は作曲の過程でバランスを考え適宜調整する要素であり、作曲時それ以上の割合を為す必要のある絶対的な水準ではないものである。

大衆的かつ前衛的な作品を作りたいという作曲家は多いのではないだろうか。私もその一人である。ただ実験的なだけの作品は好まないので、聴き手側に最低限整合性のとれた音楽を届けることを常に意識する必要がある。

非協力的な音階を用いてコード進行に軸を与えないことにより、調性を曖昧にする手法をよく使っている。コード進行の基礎とも言うべき1-4-5-1の流れに代表される”発生から収束までが約束されている進行”を使わないわけではないが、私の場合これらの進行を極力使用しない場面を楽曲内の随所に配置する。例えるとCから始まりBやD♭へ収束すると表現すれば分かりやすいだろうか。詰まるところ転調で片付けても良いのだが、コード進行に一貫性を持たせないことで収束先を自由に決めることが可能となる。ただ聴衆にとって予想を裏切られる展開ばかりが続く恐れがあるため、あくまでも実験が過ぎることのないように心掛けている。

 

展開とはすなわち楽曲の流れを指す。邦楽で例えるならば以下のようになる。

導入→主題1(Aメロ)→接続または展開(Bメロ)→主題2(サビ)→接続→主題1(Aメロ)→接続または展開(Bメロ)→主題2(サビ)→接続→主題2(サビ)→終結

私用の言語(ただしほぼクラシック音楽の構成および理論書籍を相当参考としたもの)が多いが。私が二十歳前後から注目していた点として主題の繰り返しについての必要性が挙げられる。私は作曲する際に主題やその他旋律などの繰り返しは撤廃もしくは手を加えることにしている。コード進行を変えたり主旋律の配列を変えたり、とにかく表情に変化を与えることを意識している。ただ、変化のみに尽力するのは気が引けるところである。私と同じようなアマチュアの作曲家の作品を多く聴いてきたが、近頃ではこの繰り返しそのものを排除している作曲家が多いように思える。完全に撤廃するのも面白いのだが楽曲の印象を考えると”楽曲の顔”とも呼ぶべき箇所である主題の必要性や性質については無視できないものがあるのではないかとも思えるので、内容次第ではあるが完全な撤廃をしないことが多い。主題や展開の撤廃といえば環境音楽が最もイメージしやすいものであるが、私は標題音楽を主に作っている。風景や絵画に音楽が連想されるか、あるいはその逆かという表現方法を選んでいることに起因するのか、印象的な音階と旋律を非常に必要としている。そのためポップスやロックとはまた異質の主題が必要となる。したがって楽曲の性質や性格に合わせ展開の表現方法を変えることとする。

総合して、私が常に考えているのは”大衆的かつ前衛的、機械的かつ自然的”である。

客観的に聴いてどう思うか

玄人向け。気難しい。少なくとも主役にはなれない。あくまで私生活の端で流れている脇役となるだろう。それ以上はあまり望んでいないといっても良い。これは私自身の性格が強く反映された結果と言える。

目立った反応が無い理由

まず、インストという分野自体が大衆にとって取っ付き難いという自覚が足りないのではないか。 だからこそ皆、楽曲の説明欄に「こんなイメージで作りました」といった趣旨のメッセージを乗せているのかもしれない。しかし私はこのやり方はあまり好きではない。できるだけ聴き手側の想像力に委ねておきたい。他力本願なのだろうか。

もしくは、やはり音の配列が複雑すぎることが原因かもしれない。ディミニッシュやオーギュメントなどの非協力的な音階を際限なく使用することがある進行は、一般的には主題同士の接続部に使用される。私の場合、主題の中にごく普通の感覚で取り入れてしまっている。違和感を感じざるを得ない演出に辟易する人も多いのではないか。これはもはや受け入れてもらえるのを待つしかないようにも思える。もっと当たり障りのない音へ手繰り寄せるべきだろうか。しかしそれでは今現在私が表現できる無個性さを抹殺しかねない。迷うところである。

 

 

②2時間DTMに参加した感想

 得た反応

いいねやリツイートをいくつか頂いた。ありがとうございました。

常連から見るコミュニティの好み

派手な旋律、ワブルベース、ネタ系が主に人気なコンテンツとして流布していた。主旋律を重視する方や商業音楽家を目指す方にとっては、おそらく良い交流環境ではないだろうか。芸術という霧のような概念を探りながら作っている私は完全に場違いであった。逆に一部の常連の方は投稿後すぐに一定数の反応が得られるような環境がすでに出来上がっていた。オケが多い印象を受けた。

 

 

③今後の予定

再生リスト1の完成および公開

Youtubeに投稿予定。

楽曲の公開方法模索

 サウンドクラウドだけではほぼ意味がない。それに気付くのが遅すぎたのではなく、気付いていたのに解決案を模索してこなかったことが問題であり、私の最大の欠点である。愚者が。いい加減にしろ。ぼーっとすんな。

 

 

④貯金

適当すぎる出費は抑えるべし

惣菜を買いすぎなんだよお前は。納豆で我慢しなさい。

欲しいもの
  • VST数種
  • 新PC
  • audio-technica モニターヘッドホン ATH-M50x(検討中)
  • 椅子

ソフトシンセについてはVIENNA JAZZ DRUMSTRILIANぐらいにしか惹かれていないのだが、ピアノ音源も気になりつつある。要検討。シンセについてはFM8の内容を完全に把握できる用になるまでは特に考えていない。現時点で欲しい電子音は大体搭載されているのではないだろうか。エフェクトは気になる品が数種。特にTHE MOUTHが非常に魅力的。あとはコンプとEQぐらいだろうか。

現在使っているパソコンはもう寿命を迎えていると言っても過言ではない。 USB端子の認識がされにくくなってきている上、接続部に手が触れた瞬間に認識が解除される始末。最近ではデリートキーと左のシフトキーが反応しなくなってしまった。掃除を怠ってきたツケ。パソコンは上記の中でも値段が突出しているため、意欲的に貯金していかなければならない。

椅子は出来るだけ早急に準備したい。いい加減地べたでの作曲は辛い。床に小さな机、そこにチョコンと乗っているパソコンでの作業。勉強机などの贅沢は言わずとも椅子だけでも欲しい。

 

 

⑤私生活

容姿

金をかけたくないという理由から、全くこだわっていない。散髪は自分で行っている。トリートメントはしているが、ワックスなどで整えてはいない。他者への害は無い、と思っている・・・が、周りに不快感を与えている恐れあり。ケープでも買って適当に当てるべきか。意識が低い。意中の女性がいればまた違ってくるのだろうか。そういえばもう何年も新しい服を買っていない。なぜこれほどまで金がかかるのだ。ふざけんな馬鹿野郎って言いますわ。

友人関係

友人のいない人間には二つのタイプが存在する。”友を作らないタイプ””友を作れないタイプ”である。私は後者タモリやマツコは前者だろう。ツイッターで彼らの意見に賛同している旨を発信している者たちはおそらく前者に該当する割合が高いはず。彼らの場合、近づいてくる人間がよほど波長の合わない人でない限りは会話を進めることが出来る(盛り上がりの有無や大小は考慮しない)。その後日、距離感を感じるあまり気まずさこそあれど問題なく挨拶を交わせるだろう。私にはそれすらもままならない。波長が少しでも異なる場合、まず距離を置いてしまう。その人がどのような人間なのかを知ることが最優先事項となり、自身と対象者との間で価値観や思考の相違点が多く見られた場合には、もう挨拶にさえ気が使えなくなる。相手は相手、自分は自分という考え方に起因した線引きが、私は太すぎるのだ。不思議なことに、私とは真逆のタイプの人間には強く惹かれる。外交的で活発で、勢いにまかせて結果を出し、その上皮肉や陰口などの陰湿さの度合いが低いような、そんな人間がとても輝いて見える。また、私に似たタイプの人間と過ごす時間にも居心地の良さを感じる。外交的な最北端寄りか、内向的な最南端寄りか。そんな人が好きである。

話を戻すが、挨拶を疎かにするのはまずいことである。人としてだ。たとえ好かない人間が相手だとしてもだ。相手を理解することの大切さは分かっているつもりだ。なのに辛い。辛いから逃げる。またこの繰り返し。「これが私の個性なんだ、これで良いんだ」などと抜かしながら誤魔化してきた結果、こうして自己嫌悪することと反省することを混同するようになり、こんな私だけど色々考えているんですよ?頑張っているんですよ?とでも言わんばかりにウジウジと能書きを垂れる落伍者となった。複数のコミュニティに枝分かれしている場に直面した際に、私はほとんどの場合少数派のコミュニティに身を投じる。ここまでは良いのだが、私はその中でも疎外される。妥当である。誰がこんな人間に興味を持つのだ?私の作った音楽は、今日も私の部屋の中でのみ木霊する。虚しくてバカ丸出しの亡霊のダンス。分かろうとしないから、分かってもらえないのだ。

今でもこんな私との付き合いを保ってくれている3人の友人には感謝してもしきれない。

好きな芸術作品について素直に話せる場所がない

※以下の文中には批評の在り方についての記述があるが、あくまでも芸術(主に音楽)についての私個人の見解によるものである。

音楽への評価は個人の好きと嫌いの統合であるのだろうが、各々が自らの価値観を信頼出来る環境と成長を手に入れた瞬間、その統合は個々に散らばるのではないだろうか。なぜ批判を肥大化したがる者がいるのだろうか。己の嗜好以外である他を侮辱するのは、少しでもそれを神格化する為だろうか。

これだけ大層なことを書いたが。私の生活の中には、好きな作品を共有し共感できる環境がない。サティは私の音楽観念に大きな影響を与えてくれた。しかしその気持ちを誰かに話したことがない。これはサティに限った話ではないが。

思えば、自分の足でそのような環境へ赴くことを恐れて生きてきた側面がある。どこか行ってみようかな。そういえば美術館やコンサートホールなんてここ10年ほど行っていないな。

 

 

◎一か月後

限りなく力のない希望を持って生きている。

一か月後、とうなっているだろうか。

どうせ生きているだけなのだろう、ダラダラと。

一か月後、何か良い意味での変化はあるだろうか。

底なしの抗い。終わりは見えない。