展転白書

作曲面、日常とウェブ上でのやりとりについての反省や見直しを行う個人的そして自戒的な記録。

心機一転or気分転換の動画投稿

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MBTIの動画を投稿した。内容は完全に娯楽要素を重視したもの。検証や比較などを目的としていないため、おそらく一部の視聴者からは誤解を招くだろう。まあ言ってしまえば暇つぶしであるため、あまり深く考えないようにしよう。

 

キーボードが壊れた。数か所、全く反応しないキーがある。動作も重く、DAWが強制終了する頻度も増えてきた(なんか変な音がすることもある笑)。7年使用したパソコンともそろそろお別れする日が近い。本命のパソコンを購入するためにはまだ資金が足りない。そこで、スペックは非常に低いが安い品を買うことにした。一時的な対策。今のパソコンのままでは、あまり長い記録を付ける気も失せる。

 

歯が痛い。歯科医か・・・。

 

俯く時間

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この時間まで動画を作っていた。

 

好きで音楽を作っているのかどうか、若干怪しく見える。もし本当に好きなら、もっと良質な作品を仕上げるはずなのではと、自身に対して不信感を抱き始めた。決して自分の作品を低レベルと思ったことはなかったのだが、この一週間客観的に作品を見直してみると、やはり他の作曲家に比べて品質が劣っている。音域のバランスも音源のクオリティも、私はまだまだ発展途上未満なのだという不信が募る一週間であった。一度このような思考に走ると、しばらくはもう前向きにはなれない日々が続く。それは過去の経験からして容易に想像がつく。

気を紛らわせるためか、ブログ巡りを始めた。はてなブログに限らず、様々なブログを読んでみた。なんというか、私の悩みなど、本当に大したものではないのだな。もちろん私自身は現在抱えている不安や不満で頭を唸らせている。私の、私に対する不信感は、必ず将来の自分の可能性とやらをかなり縮小させている。加えてこのネガティブ思考がそれを嫌らしいほどに優しく包括し爆発寸前の大きさまで膨張させている。定職に就いていない私にとっては現実的な不安も大きい。安定な環境に身を置く人間しか、私の周りにはいないのだから。だが、世の中ないしは日本にはもっと危機的状況に身を置いていたり、より理不尽な環境で毎日死にたい思いをしている人がたくさんいるのだということを知った。これは結局のところ他者との比較でしかないが、上手く書けないのだけれど、辛い。きつい。なんなんだ、この世界は。私はどうすれば良いのだろう。

そんなことを考えていると、結果作曲には身が入らない。雑念は音を耳障りなものに変える。難儀である。そこで、憂さ晴らしとは言わないが気分転換として動画を作ってみようと思うに至ったのだ。今作っているのはMBTI関連の動画である。海外ではその筋の動画が多量にあるのだが、日本の動画はかなり少ない。需要はないだろう。それでも構わなかった。とりあえず音楽以外で興味のあるものをやることが、今の私には必要なのだ。

動画は多分ではあるが水曜日に投稿できるはずである。

 

木金の2日間、本当に苦痛だった。仕事中常に下を向いていた気がする。自分以外の人間の笑顔が怖い。声が怖い。嫌われることは平気だとか考えていたのだが、孤独を周囲から強いられることは恐怖でしかなく、そんな被害妄想と現実を容易に係属してしまっている。暗い男はただ黙って作業していた。不快だ、自分が不快で不快で仕方がない。頭をかっぽじって脳みそをぶん殴ってやりたい。どこで間違えたのだろう。今だろうか。過去だろうか。いろんな人に置いて行かれている、確実に。

涼しくなってきた

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てゆーか普通に下書き保存できたわ。

 

 先週と本日に久々に投稿した楽曲。

 

 

ピアノの音域は調節することが難しいように思えてならない。

DTMの当たり前

作曲と編曲を分け隔てて考えたことはないが、所謂”一般論”との乖離はやはり順当なステップを踏んで学ばなかった時期が原因なんだろうな。そしてその影響はEQを使用してでの音域の調整にも及んでいる。あまり意識していなかったが、作曲における何かしらの障壁の前に立たされた際に参考文献を見ていても、そこに至る過程で自己流の軌跡を残してしまっているが故、お手本と自分の現状の間にとても大きなズレがあるのだ。音域はそのズレを顕著に示す。貧乏人ということを言い訳にできる歳でもないが、投資すべきところには注力すべきであったということ、そして基礎的なもの(曲作りにおける至要たる知識)から順に従い学ぶべきであったという2点を疎かにしたことが落ち度の集合体となり、今になって無視できない場所にあることが目視で理解できるようになってしまった。目障りなことから逃げ続ける私の性格。舐めすぎだろ世の中を。

この一週間、解決へ向けて動いている。資金が足りない今でも出来ることはある。まずは低音域に着目すべし。ここへきて二十歳前後にインポートしていた数々の楽曲がとてもとてもとてもとてもとてもとても参考になっている。特に、音作りにこだわりをもっているとされる奥田民生の関わった楽曲で勉強している。ユニコーン復活後の「蘇る勤労」の一発目に演奏した「ひまわり」を例にすると30~40Hzの時点で約2.0db出ているのに対し、私の今までの楽曲はそれを遥かに下回るものであった。過去に参考としてきた「低音域はカットする」という文面を、おそらく額面通りに或いは曲解して信用していたのだろう。私の作っているのはEDMでないにも関わらず、その分野の知識を半端に学んでいたことも原因として挙げられる。

ポイントはバスドラムである。彼らの主張をどの程度まで許すのか。私はEDMやテクノでよく耳にするような強すぎるキック音は好まないのだが、この音は中~高音域に拘った楽曲に限った特徴であると認識したほうが良い。キックの音が完全に主役として扱われている楽曲なのだと考えるべきであった。したらばピアノが主体となる楽曲を作った際には、バスドラムは低音域が主な活用範囲と考えるのが妥当である。こうやって文字に書き起こしてみると至極当然の話だ・・・。

全ての音が揃い、それぞれの音の調節を行う工程がマニュアル化されていない事は、私にとって凶と出ていると思われる。曲によって臨機応変に対処してきたが、私には合わないようだ。DTMの当たり前というものがこの世にあるのなら、誰も苦労していないのだろうか。否、あるからこそ苦労しているのではないのだろうか・・・。それとも私だけなのか、ここまで愚かな見落としをしているのは。とにかく、現状で対処できる要素を整理し、一つずつ片付けていくしかない。

 

DTM(インスト)の魅力

聴き手側との一体感なるものを求める必要性が低いことだと考えている。少なくとも「必ずしも必要なもの」ではない。私は好きなアーティストのライブに足を運んだことがない。

「オイ!オイ!オイオイオイオイ!」←みたいなことが出来ない。

個性を大切にしろという感じの音楽は多いが、ライブの完成度は個ではなく集、つまり協調性によって完成度が決まるような気がしてならない。しかしそれもそのはず、そのアーティストを支持する・愛している人の集まりなのだから。それでもやはり細かい溝に目が行ってしまう。「ホントに俺のこと分かってんのか?」という謎の超上から目線で直立してしまっている自分が簡単に想像できる。昔からこの調子のため、自分を守る道を優先して考え、好きな物が同じ人間と共にはしゃいだことがあまりない。多分、高校2年のあたりからだ。ああ・・・・。

 

・・・・ああ。

先週書いた「共通の視点を持つ人々と語り合う場所がない」のは、来るべくして訪れた現実なのだな。分かってはいたが苦しい。どっちの人間性へ転がっても苦しい。

話を戻すが、その点DTMで作曲可能なインストは協調性よりも共有性に重きを置きやすい。その上標題音楽を作ることに関してはこれ以上利用しやすい環境は他にないのではないか。喜んで良いものかどうかは分からない。

酸っぱいブドウにならないようにしなければ。どうせなんて言いたくはない。

調

ロ長調の楽曲をあまり作ったことが無いことに気が付く。

シ ド# レ# ミ ファ# ソ# ラ# シ

黒鍵を全て使用することが可能。上手く活かした音が前後にどのような影響を与えるのかは全く不明。Bmならばとっつき易いのだが。ショパンが好んで使っていたとされているようだ。

それはそうと、先週サティに影響を受けたと記したが、改めて調べてみるとまだまだ彼に対する認識が甘いのだと痛感せざるを得ないような情報が多量に出てくる。初めて聞いた曲や好きな曲から受けたイメージが先行しすぎてしまっているのだろう。反省。印象派の代表格といえばドビュッシーラヴェルになるようだが、家具の音楽と称されている彼の音楽は、環境音楽というよりはむしろ自分の時間をその曲のために使い嗜みたい音楽に思われるのだが。うーむ。

 

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しつこい様だが音域の問題は大きい。私の頭の中にどれほどの量と質を詰め込めるのかは不明だが、時間をかけてでも整然とした手引を作成する必要がある。

 

仕事用の靴を買うために日の出前にドンキへ出かけた。水曜日のリニューアルに伴う改装のためシャッターが下ろされていた。なぜこんなことばかり起こる。

しかし事前に調べておくことも出来たかもしれない・・・。はあ。

酒を飲んで寝る。また一週間が始まるのか。4分の3ほどはつまらない時間で埋め尽くされたスパン。金のために働き、その金も働く人のために使われる美しいほどに滑らかな循環。お金を儲ける仕組みの中で、多少の理不尽はあれど実力により見せつけられる経済力や容姿の差。募りに募る劣等感。勉学を怠った結果。いやそれだけではない。この敗北感の原因のうち、正体がまるで不明の得体の知れない素因が複数存在している。どうしてここまで自分を嫌い、勝手に挫折するのか。いつもそばにいてくれる人が誰もいないからか?もうね、魚になりたい。魚に。物凄く小さいやつがいいやね。はぐれたら食われる弱肉の雑魚。

2018年9月9日時点での記録

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下書き保存ができないとは。地獄の書き直し。

 

先週、勤務中空いた時間を使って自分自身の問題点として意識すべき点を紙に書いていた。その際列挙したのは私生活における問題のみであったが、折角なので曲作りにおける姿勢についても(自己分析を兼ねて)まとめてみる。当ブログで記録らしい記録を行っていないことも良くないというわけで、2018年9月現在における私の脳内で整理されている”自分自身”をここに記載しておく。一か月後の私がこれを見てどう思うか少々楽しみである。

 

 

①自身の楽曲について

特徴
  • 調性を曖昧にし、無個性さ・掴み処の無さを演出する。
  • 主題をただ繰り返さない展開を意識する。
  • 印象派

上記は作曲の過程でバランスを考え適宜調整する要素であり、作曲時それ以上の割合を為す必要のある絶対的な水準ではないものである。

大衆的かつ前衛的な作品を作りたいという作曲家は多いのではないだろうか。私もその一人である。ただ実験的なだけの作品は好まないので、聴き手側に最低限整合性のとれた音楽を届けることを常に意識する必要がある。

非協力的な音階を用いてコード進行に軸を与えないことにより、調性を曖昧にする手法をよく使っている。コード進行の基礎とも言うべき1-4-5-1の流れに代表される”発生から収束までが約束されている進行”を使わないわけではないが、私の場合これらの進行を極力使用しない場面を楽曲内の随所に配置する。例えるとCから始まりBやD♭へ収束すると表現すれば分かりやすいだろうか。詰まるところ転調で片付けても良いのだが、コード進行に一貫性を持たせないことで収束先を自由に決めることが可能となる。ただ聴衆にとって予想を裏切られる展開ばかりが続く恐れがあるため、あくまでも実験が過ぎることのないように心掛けている。

 

展開とはすなわち楽曲の流れを指す。邦楽で例えるならば以下のようになる。

導入→主題1(Aメロ)→接続または展開(Bメロ)→主題2(サビ)→接続→主題1(Aメロ)→接続または展開(Bメロ)→主題2(サビ)→接続→主題2(サビ)→終結

私用の言語(ただしほぼクラシック音楽の構成および理論書籍を相当参考としたもの)が多いが。私が二十歳前後から注目していた点として主題の繰り返しについての必要性が挙げられる。私は作曲する際に主題やその他旋律などの繰り返しは撤廃もしくは手を加えることにしている。コード進行を変えたり主旋律の配列を変えたり、とにかく表情に変化を与えることを意識している。ただ、変化のみに尽力するのは気が引けるところである。私と同じようなアマチュアの作曲家の作品を多く聴いてきたが、近頃ではこの繰り返しそのものを排除している作曲家が多いように思える。完全に撤廃するのも面白いのだが楽曲の印象を考えると”楽曲の顔”とも呼ぶべき箇所である主題の必要性や性質については無視できないものがあるのではないかとも思えるので、内容次第ではあるが完全な撤廃をしないことが多い。主題や展開の撤廃といえば環境音楽が最もイメージしやすいものであるが、私は標題音楽を主に作っている。風景や絵画に音楽が連想されるか、あるいはその逆かという表現方法を選んでいることに起因するのか、印象的な音階と旋律を非常に必要としている。そのためポップスやロックとはまた異質の主題が必要となる。したがって楽曲の性質や性格に合わせ展開の表現方法を変えることとする。

総合して、私が常に考えているのは”大衆的かつ前衛的、機械的かつ自然的”である。

客観的に聴いてどう思うか

玄人向け。気難しい。少なくとも主役にはなれない。あくまで私生活の端で流れている脇役となるだろう。それ以上はあまり望んでいないといっても良い。これは私自身の性格が強く反映された結果と言える。

目立った反応が無い理由

まず、インストという分野自体が大衆にとって取っ付き難いという自覚が足りないのではないか。 だからこそ皆、楽曲の説明欄に「こんなイメージで作りました」といった趣旨のメッセージを乗せているのかもしれない。しかし私はこのやり方はあまり好きではない。できるだけ聴き手側の想像力に委ねておきたい。他力本願なのだろうか。

もしくは、やはり音の配列が複雑すぎることが原因かもしれない。ディミニッシュやオーギュメントなどの非協力的な音階を際限なく使用することがある進行は、一般的には主題同士の接続部に使用される。私の場合、主題の中にごく普通の感覚で取り入れてしまっている。違和感を感じざるを得ない演出に辟易する人も多いのではないか。これはもはや受け入れてもらえるのを待つしかないようにも思える。もっと当たり障りのない音へ手繰り寄せるべきだろうか。しかしそれでは今現在私が表現できる無個性さを抹殺しかねない。迷うところである。

 

 

②2時間DTMに参加した感想

 得た反応

いいねやリツイートをいくつか頂いた。ありがとうございました。

常連から見るコミュニティの好み

派手な旋律、ワブルベース、ネタ系が主に人気なコンテンツとして流布していた。主旋律を重視する方や商業音楽家を目指す方にとっては、おそらく良い交流環境ではないだろうか。芸術という霧のような概念を探りながら作っている私は完全に場違いであった。逆に一部の常連の方は投稿後すぐに一定数の反応が得られるような環境がすでに出来上がっていた。オケが多い印象を受けた。

 

 

③今後の予定

再生リスト1の完成および公開

Youtubeに投稿予定。

楽曲の公開方法模索

 サウンドクラウドだけではほぼ意味がない。それに気付くのが遅すぎたのではなく、気付いていたのに解決案を模索してこなかったことが問題であり、私の最大の欠点である。愚者が。いい加減にしろ。ぼーっとすんな。

 

 

④貯金

適当すぎる出費は抑えるべし

惣菜を買いすぎなんだよお前は。納豆で我慢しなさい。

欲しいもの
  • VST数種
  • 新PC
  • audio-technica モニターヘッドホン ATH-M50x(検討中)
  • 椅子

ソフトシンセについてはVIENNA JAZZ DRUMSTRILIANぐらいにしか惹かれていないのだが、ピアノ音源も気になりつつある。要検討。シンセについてはFM8の内容を完全に把握できる用になるまでは特に考えていない。現時点で欲しい電子音は大体搭載されているのではないだろうか。エフェクトは気になる品が数種。特にTHE MOUTHが非常に魅力的。あとはコンプとEQぐらいだろうか。

現在使っているパソコンはもう寿命を迎えていると言っても過言ではない。 USB端子の認識がされにくくなってきている上、接続部に手が触れた瞬間に認識が解除される始末。最近ではデリートキーと左のシフトキーが反応しなくなってしまった。掃除を怠ってきたツケ。パソコンは上記の中でも値段が突出しているため、意欲的に貯金していかなければならない。

椅子は出来るだけ早急に準備したい。いい加減地べたでの作曲は辛い。床に小さな机、そこにチョコンと乗っているパソコンでの作業。勉強机などの贅沢は言わずとも椅子だけでも欲しい。

 

 

⑤私生活

容姿

金をかけたくないという理由から、全くこだわっていない。散髪は自分で行っている。トリートメントはしているが、ワックスなどで整えてはいない。他者への害は無い、と思っている・・・が、周りに不快感を与えている恐れあり。ケープでも買って適当に当てるべきか。意識が低い。意中の女性がいればまた違ってくるのだろうか。そういえばもう何年も新しい服を買っていない。なぜこれほどまで金がかかるのだ。ふざけんな馬鹿野郎って言いますわ。

友人関係

友人のいない人間には二つのタイプが存在する。”友を作らないタイプ””友を作れないタイプ”である。私は後者タモリやマツコは前者だろう。ツイッターで彼らの意見に賛同している旨を発信している者たちはおそらく前者に該当する割合が高いはず。彼らの場合、近づいてくる人間がよほど波長の合わない人でない限りは会話を進めることが出来る(盛り上がりの有無や大小は考慮しない)。その後日、距離感を感じるあまり気まずさこそあれど問題なく挨拶を交わせるだろう。私にはそれすらもままならない。波長が少しでも異なる場合、まず距離を置いてしまう。その人がどのような人間なのかを知ることが最優先事項となり、自身と対象者との間で価値観や思考の相違点が多く見られた場合には、もう挨拶にさえ気が使えなくなる。相手は相手、自分は自分という考え方に起因した線引きが、私は太すぎるのだ。不思議なことに、私とは真逆のタイプの人間には強く惹かれる。外交的で活発で、勢いにまかせて結果を出し、その上皮肉や陰口などの陰湿さの度合いが低いような、そんな人間がとても輝いて見える。また、私に似たタイプの人間と過ごす時間にも居心地の良さを感じる。外交的な最北端寄りか、内向的な最南端寄りか。そんな人が好きである。

話を戻すが、挨拶を疎かにするのはまずいことである。人としてだ。たとえ好かない人間が相手だとしてもだ。相手を理解することの大切さは分かっているつもりだ。なのに辛い。辛いから逃げる。またこの繰り返し。「これが私の個性なんだ、これで良いんだ」などと抜かしながら誤魔化してきた結果、こうして自己嫌悪することと反省することを混同するようになり、こんな私だけど色々考えているんですよ?頑張っているんですよ?とでも言わんばかりにウジウジと能書きを垂れる落伍者となった。複数のコミュニティに枝分かれしている場に直面した際に、私はほとんどの場合少数派のコミュニティに身を投じる。ここまでは良いのだが、私はその中でも疎外される。妥当である。誰がこんな人間に興味を持つのだ?私の作った音楽は、今日も私の部屋の中でのみ木霊する。虚しくてバカ丸出しの亡霊のダンス。分かろうとしないから、分かってもらえないのだ。

今でもこんな私との付き合いを保ってくれている3人の友人には感謝してもしきれない。

好きな芸術作品について素直に話せる場所がない

※以下の文中には批評の在り方についての記述があるが、あくまでも芸術(主に音楽)についての私個人の見解によるものである。

音楽への評価は個人の好きと嫌いの統合であるのだろうが、各々が自らの価値観を信頼出来る環境と成長を手に入れた瞬間、その統合は個々に散らばるのではないだろうか。なぜ批判を肥大化したがる者がいるのだろうか。己の嗜好以外である他を侮辱するのは、少しでもそれを神格化する為だろうか。

これだけ大層なことを書いたが。私の生活の中には、好きな作品を共有し共感できる環境がない。サティは私の音楽観念に大きな影響を与えてくれた。しかしその気持ちを誰かに話したことがない。これはサティに限った話ではないが。

思えば、自分の足でそのような環境へ赴くことを恐れて生きてきた側面がある。どこか行ってみようかな。そういえば美術館やコンサートホールなんてここ10年ほど行っていないな。

 

 

◎一か月後

限りなく力のない希望を持って生きている。

一か月後、とうなっているだろうか。

どうせ生きているだけなのだろう、ダラダラと。

一か月後、何か良い意味での変化はあるだろうか。

底なしの抗い。終わりは見えない。

9月

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2時間DTMをやめる。

オーディオストックなど別の手段に変更。Youtubeへの投稿も再開する。

 

台風21号接近中。愛知はおろか西日本から東海にかけて直撃か。最悪。

INTJらしい

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イメルダ・メイに絶賛没頭中。CD買おうかな。

 

近頃、空いた時間(職場での休憩時間、就寝前の3時間ほど)にMBTIについて色々調べている。私の診断結果はINTJ-Aとのこと。

利用したサイトはこちら:無料性格診断テスト | 16Personalities

この性格検査で重視されているのは診断の結果ではなく、診断後の”自分自身の在り方についてを考える行為”だそうだ。診断をすることで自身の美点と欠点、注意点などを整理し今後に活かすこと。心身の健康状態や周囲の環境によっては回答が変化するため、診断結果が変わるという声が多いことは当然の話だろう。しかしながら自分の欠点を再確認することが目的であるならば、結果が変わるたびに欠点も目まぐるしく変わるということになるな。まあ完璧超人を目指すわけでもなし、診断結果として挙げられた特徴一覧に「そんなことはない」と思った点がある場合は無視しても良いのかもしれない。

INTJについて色々調べているが、釈然としない点もままある。サイトによっては「心がない」と書かれていて非常に辛かった。あるで、心。一番うれしかったのはホグワーツでいうとレイブンクローらしいということ。もう少し掘り下げていきたいところだ。MBTIに関連する書籍は多いようなので、いずれかを購入するのも面白いかもしれない。

 

 

最近、特に自戒すべきことがある。ツイッターの使い方あるいは使っている意味についてである。

いいねを貰えないことに不安を感じている事が、これらを考える契機となった。2時間DTMは確かに魅力的な小イベントだ。伝手も手段もふり幅が狭い私に、作品を作る空間と課題を与えてくれた。最低でも一人は私の作った音を聴いてくれる、そんな環境さえ与えてくれた。だが、やはりモテるのはロマン派である。感情表現が得意な人ほど、旋律主体の展開を2時間で見事に昇華させている。一方私の音楽は標題音楽的。背景を主体とし、印象とし、和音にするという工程。メロディを作り出すことが決定的に苦手なのだ。曖昧な音の配列と進行が、私の作る楽曲のほとんどを支配している。実に玄人好みといえる。これでは好んで聞いてくれる人の数は増えにくい。かといって今更自分の表現方法を変えることは好かない。如何に機会を増やしていくかが重要なのだろうか。

感情表現といえば、最近ツイッターで「今日こんなことがありました系話」と「なのでこう言い返して黙らせて帰りました系話」がよく目に止まるようになった。フォローしている人によるリツイートだ。かねてからツイッターを利用している方にとっては日常茶飯事のことなのかもしれない。しかし正直この手の話は見ていて落ち込むというかモチベーションが下がるので、その観点からみても私には不向きのツールといえる。もっとないのか、良い感じのアプリは。

 

そろそろ自作曲をマスタリングし小1時間にまとめた音楽集第一弾を作る。また、サウンドクラウドが容量一杯になればまたようつべに集中して投稿しようと思う。